「美容師のおしゃべりを誰か止めて下さい」朝井麻由美のひとみしりブルースvol.1

「ひとみしり」であることを主張すると、私もだ僕もだ我こそがと、自分がいかにひとみしりであるかで場が盛り上がる。中には、到底ひとみしりに見えないような人も混じっていて、なんとなく腑に落ちない思いをすることも少なくない。

いかにも口下手そうな自称ひとみしりもいれば、一見、友達が多そうで日々充実していそうな自称ひとみしりもいる。ひとみしりとは、一体何なのか。名乗れば誰でもひとみしりになれるのか。言葉の影響力のわりに、あまりに輪郭がぼんやりしているひとみしりについて、今一度考え込んでみたい。

ひとみしりは“適度な欠点”

そもそも前提として、ひとみしりはあくまでも欠点であり、声高に主張するものではないとは申し添えておきたい。ひとみしりであることは、恥ずかしいことなのだ。いい歳をして初対面を見るや否や伏し目がちになるそれは、克服してしかるべきことなのだ。

それが昨今、“ちょうどいい塩梅の自虐”として活用されがちなきらいがある。自分を落としすぎない“適度な欠点”であり、それなりに共感されやすい要素だからなのだろう。何しろ、私自身が少しそう思っている。だから今こうして、ワールドワイドウェブに、自身の経験を含めたひとみしりの話を書き散らかそうとしているのだ。

ゆえに、ひとみしりは欠点であることを自覚して、慎ましやかに自称していきたい。(書けば書くほど慎ましやかからかけ離れていくので、困る)

美容院でむやみやたらに話しかけられる件

長年、思っていることがある。「一切、お客さんに話しかけない」をウリにする美容院が、なぜ一向に登場しないのか。

雑誌を開けば「夏服はもう買いました?」、スマホを触れば「Facebook(見てるん)ですか?」、ぼんやり鏡を見ていたら「休みの日とか何してるんですか?」。八方ふさがりである。髪を切ってもらうためだけに会うビジネスライクな関係の美容師に、なぜ休みの日の私の出没情報を教えなければならないのだろう。なぜFacebookを見ているなう、と宣言しなければならないのだろう。

なんなら、そのエネルギーは髪を切ることにのみ注いでいただきたい、とすら思う。会話に夢中になるあまり、失敗したらどうしてくれるんだ、と要らない心配さえしている。

無口なひとみしりと多弁なひとみしり

不思議なことに、こういった状況で「ひとみしりなので、『はいー』『ですー』と気の無い返事を繰り返して察してもらいます」という無口なタイプもいれば「一生懸命受け答えをするけど、私はひとみしりです」という多弁なタイプもいる。前者は分かりやすいが、後者は一見ひとみしりに思えない。後者のタイプに話を聞いてみると、根底には「気を遣って受け答えはするけど、本心では誰とも話したくない」との思いがあるようだ。

つまり両者に共通するのは「コミュニケーションにエネルギーを割きたくない」という点。ひとみしりと自認する者は、「初対面の他者との会話で得られる歓楽や情報(メリット)」と「初対面相手に割く気遣いや話題提供や緊張感などのエネルギー(デメリット)」を天秤にかけたとき、デメリットのほうが大きく感じるのだろう。

かゆいと言えないひとみしりな私

なお私は無口なタイプのひとみしりである。

「休みの日とか何をしているのか」は言わずとも、せめて「かゆいところありませんか?」の質問には答えられるようになりたい。ひとみしりであるせいで、かゆさの解消ができていない。かゆい気持ちを伝えるために割くエネルギー(デメリット)と、かゆさが解消される快楽(メリット)を天秤にかけて、いまだ言えないままでいる。

かゆい人生と、かゆくない人生なら、かゆくない人生を歩みたいのに。

【今回の発見】

ひとみしりは、コミュニケーションにエネルギーを割きたくない

朝井麻由美
ライター・編集者・コラムニスト。ROLa、日刊サイゾー、マイナビ、ぐるなび、ウートピ等コラム連載多数。執筆テーマはカルチャー、女ネタ、ぼっち、人見知り。近著に『ひとりっ子の頭ん中』(KADOKAWA)。構成書籍に『女子校ルール』(中経出版)。一人行動が好きすぎて、一人でボートに乗りに行ったり、一人でBBQをしたりする日々。